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老大学生奮闘記#17 無邪気

 

「神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものととなった。」(創世記2章7節) 

 

 このブログでは全く異なる次元の二種類のことばで書かれていくことになります。一つは聖書から真理をくみ取りながら、魂の直観を働かせて自由に語る信仰のことばです。

今一つは小学校から大学に至るまでの教育が目指しているところですが、理性の論理で一つ一つエビデンス(証拠)を積み上げながら知識を構築していく理性のことばです。

 

 冒頭に聖書のことばを持ってきて、その意味を極めていこうとするところは牧師のことばです。その意味ではこのブログは牧師のことばで語られている部分ということが出来ます。と同時にこのブログでは理性が発達してしまった人にも何とか理解してもらいたいという意味で、理性のことばでも語ろうとする部分もあります。

 

 さて冒頭の聖書ですが、最初の人、その人の名はアダムと言われていますが、彼は全能の神によって地のちりから創造されました。

 

勿論ここには理性が要求するエビデンスはありません。信仰によってそう信じることが出来るからこそ牧師は大胆に語るのです。しかし、僕の経験から言えば、こうした語り方は教育の効果によって現代的思考に馴らされた人には、受け取り方に困難を感じるようです。頭で理解したい。こう欲する限りはなかなか信仰のことばは理解しずらいようです。

 

 イエス様が前回話した「幼子の心」とは、現代教育で仕込まれた思考法とは真逆で、魂の直観で理解しようとする心のことです。こうした心の状態を普通「無邪気」と言います。国語辞書では「悪気がない」とか「あどけない」という状態を言い、あまり深い意味は語られていません。

 

聖書ではこれを、最初の人に神の息を吹き込まれ、これから人間として成長していく初期の状態のことをいます。信仰はこの無邪気の土壌の上で成長していくものでもあるのです。そして理性は信仰の成長を阻む要素を持つことにもなったのです

 

    協力牧師 Amos (A.S.S.)