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老大学生奮闘記#19 地のちりといのちの息

 

「神であるは、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世紀2:章7節)

 

 「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」(伝道者の書12章7節)

 

 上の二つの聖句を平行法の原則に当てはめて読むと、人間の肉体は地を構成する物質で作られ、精神は神のかたちである霊の息吹きであると解釈できます。

肉体は物質を始原とし精神は神から賦与された霊である、と言っているのです。

 

肉体の定性・定量的な分析から、水素と炭素と酸素、数種類の少量の金属と灰分から出来ていることが分かっています。しかし現代科学で精神を解析しようとしても定量的なことはもとより定性的なことすら何も分かっていないのです。

とくに精神は脳の働きであるとの予測に基づく研究は、逃げ水のように奥へ奥へと入り込んでおり、深遠さを増してきています。

 

 「心とは何か」について昔から哲学においては定性的に考察されてきており、近代においては心理学において定量化しようとする試みが行われてきてはいますが、それらはほとんどの場合、心の現れを記述しているだけであって、決して心の本質を見ているとは言えません。

こうした学問的なアンバランスは何を意味するのでしょうか。何か人間の知的な前提に脱線が起きているのではないかを考えざるを得ません。

 

 この文を読んでおられる方も何を言いたいのだ、と思っておられるでしょう。このように精神については書けば書くほど言語明瞭意味不明になってしまいます。

過去300年間の近代科学の方法論においては、自然界の力の領域と霊魂に領域においては何も分かっていないというのが実情です。

 

しかし聖書はこの領域については思想とか考察という形ではなく、啓示すなわち宣言という形で語っています。聖書はある意味で独断的な断言ですから、理性が納得するエビデンスはありません。ですからそんなことは信じられないとして排除されるかも知れません。

 

 もし精神について知りたいと思われるなら、これは神から与えられた霊魂であると理解すべきです。あるいは魂と言ってもよいのですが、この人の内面が求めていることは心の平安と生きていることの意味、祈りを受け取ってほしという欲求です。

 

 人はこの宗教的欲求に飢えていると言っても過言ではありません。今の時代、知的な情報に溢れていますが魂は寒々とした飢餓状態にあると言えるでしょう。これが暇つぶし産業が盛況である理由です。

 

 

  このブログはある意味で理性的な探求の形をとってはいますが、時には精神が揺さぶられて、神さまのことを考えたり祈りたいという思いになってくださればうれし限りです。

 

 協力牧師 Amos (A.S.S.)