「神は彼ら(最初の男女)を祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1章28節)
話題が自然科学の問題から聖書の話に移ってきましたが、それは聖書と科学の問題は世界観の問題であったと気づいたからです。
科学の世界観は単純です。自然(宇宙)は法則によって存在する。このことに尽きます。
聖書の世界観も単純です。存在(物質と意識)は神の創造のわざによって始まり、今も神の支配原理の中にある。これに尽きます。
この両者は決して対立的でも乖離しているものでもありません。むしろ両者な相補的な関係にあると言ってもよいでしょう。
しかし、人間観となると両者は正反対です。科学は人間(意識)を自然の一部とみなしていますが、聖書はそうではありません。人間は神の御前に特別な存在とされています。
その一つの現れが環境問題です。環境が問題意識として浮上してきたのは1962年、海洋生物学者レイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』によってです。次にギャレット・ハーディンが『コモンズ(共有地)の悲劇』を出版しました。
詳しくない方はこの二つについてはネットなどで調べていただきたいのですが、次にリン・ホワイト・Jrが「エコロジー危機の歴史的起源」という論文を発表しました。
そして現代の環境問題の起源が西欧社会において上掲の聖書のことばを人間の都合に合わせて解釈したからだと唱えました。ところが著者の意に反して一般では「人間を特別視する聖書の思想にある」とされてしまいました。
聖書は、大自然は神の栄光を現わすものとして支配しておられる、と解釈できることは確かです。その上で、地の支配権の一部を人間に託されたと理解すべきです。支配権というよりも管理責任と言った方が良いでしょう。17世紀以降、ヨーロッパにおいて自然科学が発生して以来、東洋と西欧では自然との付き合い方がかなり違ってきました。科学によって自然の秘密が開かれ、エネルギーを自在に扱われるようになってからは、昔の大王のように自然を征服し、東洋とアフリカ各地を植民地化し、江戸日本の鎖国の眠りまで覚ましてしまいました。こうして現代の環境問題が起こって来たのです。
聖書の自然神学がギリシャ的な人間賛歌と手を取りあって近代科学を発展させて来たということは事実です。しかし神は人間に自然を思いのままに支配し強奪することを許したとすることは誤解です。自然科学は人間理性の勝利であると言えるかもしれません。しかし環境問題は人間のあくなき欲望への警告ととらえるべきです。欲望は地獄の火です。今さかんに言われている持続可能な発展は、欲望を抑え込む力を持たない限り、環境は地球の許容量を飲み込んでしまうでしょう。
しかし聖書は、この絶望的ともいえる環境問題への回答も用意しています。それはキリストの再臨による終末論です。しかしこれは理性では理解不能の領域ですので提示することにとどめますが、信仰は時代の解決はこれしかないと受け取ることが出来るのです。
協力牧師 Amos (A.S.S.)
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