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老大学生奮闘記#24 ふたりは一体 

 

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創世記2章24節)

 

 神は最初は一人の男として人を創造し、アダムと名付けた。この後彼のわき腹から骨を取って一人の女に造り上げ、アダムはこれをエバと名付けた、と記されています。

時々懐疑的な人から「本当にこんな事を信じているのか」と言って揶揄されることがあります。

 

 たしかに「そうだその通りだ」と信じることも決して非難されるべきではありません。主はこれを幼子のような信仰と言って、こうした信仰によって「天の御国」の一員になれることを保証されました。主が言われたのは、人は必ずしも正確な科学的知識を持っていなくても、単純な信仰があれば、天国に行けることを保証されたのです。

 

 しかし、人類は進歩し教育を発達させ、学問も進歩して物事の構造を一つ一つ明らかにして、世界を知的に理解できるようになってきました。そして神話を「古代の遺物」としてもう一度科学的に検証して確かめなければならないということを常識化してしまいました。そのためほとんどの人は聖書を読んで「これは真理だ」と信じることを困難にしました。

 

 僕は小学校卒業ころにはかなりの知識を身につけ、主が言われた「幼子の心」は失われていると感じています。そのため、中学生頃には多くの子どもたちが「信仰の躓き」に遭遇しています。ですからここの男女の創造の話は容易には信じられないこととされています。

 

 これを神話と見る限りはそうです。でもこれを「物事の起源を考える一つの見方」とすれば別のことが見えてきます。今の科学も一つの自然観また世界観であるのですが、これによってすべてが説明し切れているわけではありません。科学は時に事を「再現性」で説明しようとしますが、ものごとにはすべて始まりがあります。

 

 それは宇宙のはじまりから、太陽のはじまり地球のはじまり、生物のはじまりヒトのはじまり等々、これはもう再現性では説明不可能です。では説明がないのかと言うとそうではありません。世界中の神話がほとんどの場合、物のはじまりの説明であると言われています。これを徹底して「一回性」で説明しようとしているのは、実は聖書だけです。

 

 ということは、聖書を科学の目で見ると別のことが見えてくるということです。今回は「男女のはじまり」に限って言えば、高等な生命体は最初「対」からなっています。これは科学的にはかなり困難な問題です。

 

 なぜ1では駄目なのか。なぜ対、すなわち2なのか。聖書は現代的な知見が未知の靄の中で迷走しているところを、「真理はここにあり」と先導しているかのように、宣言しています。もちろんこのように持ってくるためには、先人の神学者・聖書学者たちの現代科学を超える聖書解釈の努力があっての上ですが、ここに「聖書の偉大さ」が太陽にように輝いているのです。

 

このたび、教会のページを改定して[アモスのページ]を開設しました。是非、ご覧ください
協力牧師 Amos (A.S.S.)