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老大学生奮闘記#25 無邪気・その2

 

「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2章25節)

 

 僕のニックネームをアモスにしたのはなぜかというと、旧約聖書の預言者の一人にアモスと言う人物がいます。この人の名にあやかかってのことです。ヘブル人(イスラエル人)の名は日本人と同じように言葉の意味を読み取ることが出来ます。アモスは「重荷を負う者」と言う意味があり、荷物を担いで運ぶことを職としていたということです。日本流にいうと「重夫」(じゅうふ)です。これは僕にぴったりだと思いこれをニックネームとして頂くことにしました。

 

 「無邪気」についてはすでに No17 で書いたのですが、上の句は最初の夫婦の間には全く邪気がなかったことを表していますので、もう一度この題目を取り上げることにしました。地球上の生物の中でも衣服を着けているのは人間だけです。それは裸は恥ずかしことだからです。文化人類学においても「裸度と文明」の間には関係がありこれは興味ある題目となっています。幕末に日本に来た西欧人が驚いたことの一つに、市中の風呂屋(銭湯)は混浴で、子育ての母親は所かまわず赤子に乳を含ませていたことです。キリスト教文化からすればこれは驚くべきことでした。

 

 なぜこんなことが起こっていたのでしょう。それは人間としての罪悪感と関係しています。これを指摘したのはアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトと言う人です。彼女は太平洋戦争中日本人の精神構造を分析し、それを「菊と刀」と言う本にまとめ出版し、終戦後は日本でも読まれました。

 彼女の分析によると当時の日本人は罪の意識は希薄で日本は「恥の文化」(これは漱石が「心」で描いた向こう三軒両隣・すなわち人前)だと指摘しました。罪すなわち罪悪感は神(前)を意識することによって頭をもたげてくるものであって、それまではほとんど眠っているものです。造られたままのアダムとエバは裸であったことを気にもしていませんでしたが、神の命に反し禁断の実を食べた途端、自分たちが裸であったことに気づき、神の前から隠れました。これを罪悪感と言うのです。

 

 罪悪感は宗教心の重要な要素で、これなくしては神を求めることも信じることもあり得ません。なぜなら、罪悪感とは「神に対して罪あり」とする心の状態であって罪悪感が希薄であるということと神なしでも平気であることは同じ意味です。こう考えると現在の日本の精神風土は、「伝道してこなかった教会の所為」とついつい僕などは考えてしまいます。

しかし、日本人は「人生の無常」(これは仏教文化と関係があります)に対しては敏感です。そしてこれは魂の飢餓状態を現わしています。人生の「空の空」を理解できたなら、そこから神を求め救いを求めるということも見えてくるのではないかと思います。

 

 

このたび、教会のページを改定して[アモスのページ]を開設しました。是非、ご覧ください

 

協力牧師 Amos (A.S.S.)

  

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コメント: 1
  • #1

    スタッフよしこ (月曜日, 04 5月 2020 10:56)

    先生のニックネームの由来と、幕末の日本における銭湯と罪悪感との関連性については興味深かったです。日本人が敏感であるという『人生の無常』という点からのアプローチ、私も考えて行きたいと思います。