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老大学生奮闘記#31 エデンの園の東

 

「こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」(創世記3章24節)

 

 創世記の初めには神話のようなお話がありますが、単なる神話ではありません。

 

 ほとんどの信仰者たちは、聖書を神のことばとして単純に受け取っていますが、ではこの話は絶対に本当であって間違いないと言って、これにいのちを賭けるかと問われると、「うーん」と唸ってしまいます。

 

 またある方は、自分の理性を納得させるために、「こんなのは昔話だ」と言って軽く脇においているかも知れません。実際には目撃者がいないのですから分からないことなのです。

 

 ではなぜこんな話が聖書の中に置かれているのでしょう。それは神の御前における人間の立場を説明するためです。人間は始祖において神の言いつけに背き、逃亡者となったということを記しています。人は一方では神を激しく求め、半面、神から逃げているのです。この矛盾した行動の真実を説明するには、実は聖書の神話しかないのです。

 

 これまでに考古学、歴史学、心理学、精神病理学など、ありとあらゆる学問を動員しても、人間のこの不可思議な内面を説明することは出来ていませんでした。最近では人間の精神構造を脳内物質の化学反応によって説明しようとする動きもありますが、実はこちらの方が神話どころか魔術を使った話になっています。

 

 神がエデンの東の門を封鎖した話は、人間がどんなに努力しても楽園には戻れないことを示しています。

「パンドラの箱」と言うギリシャ神話をご存じでしょうか。また「青い鳥」と言う童話をご存じでしょうか。これらは人間の幸福への努力は徒労に終わるという話です。

 

 人間は頭で物事を理解しようとしますが、聖書の物語はこの創世記の神話を受けて展開され、イスラエルの歴史において人の心には神の顔から逃げようとする動機の方が強く、結果、つかの間の幸福はあるかも知れませんが、「魂の平安」と言う意味での究極的な充実を持つことはない、と断言しています。

 

 創世記はまだ物語が始まったばかりです。旧約聖書は神の厳しさばかりが目立つかも知れませんが、捕囚と言う民族の滅亡を味わったイスラエルの民は終に「メシヤ(救い主)待望」に至ります。

これを受けて新約聖書ではイエス・キリストが登場し、十字架による救いを成し遂げ、いのちへの道が提供されました。聖書は部分部分では理解されなくても、全体は統一されています。楽園への門は「キリストへの信仰」によって開かれるのです。

 

 

 

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