老大学生奮闘記#32 いのちの木への道

 

「こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園に置かれた。」(創世記3章24節)

 

 エデンの園には果実を産する木々があり、園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木がありました。神は人に対して善悪の木からはとって食べてはならないと戒められたのですが、蛇の誘惑に惑わされ、取って食べ、神から呪いの宣告を受けたということが前回までのあらましです。

 

 園には外にいのちの木もありましたが、神はこれを守るために人を園から追放されました。これが園の追放で、このモチーフはミルトンの叙事詩「失楽園」で有名です。

人々はかって人祖が楽園で暮らしていたように、幸福を手にしようと努力しますがなかなかそれを手にすることはできません。

こうした様子をメーテルリンクは「青い鳥」で表しました。表面的にはある人は幸せそうである人は惨めな人生をたどっているといえるでしょう。しかし、人は本質的には呪いの下に置かれている。これは創世記の教えているところです。

 

 もし神が人間をそのように処断しておられるとしたら、人はこのような神から逃走していることになります。神と人との距離を縮めることはかなり困難です。神以外のところで、自分の手で幸福を掴みたい。これがほとんどの人の行動パターンとなっています。

 

 人の本心は、所詮こんなことは神話にすぎないと言って無視したいところです。そうできるなら確かに神は必要ありません。事実、人生が万風順調の人は宗教も信仰もなしで生きていけます。神を信じるなどは敗北者のやることだと言います。

 

 しかし、楽園への道はケルビムという天使と輪を描いて回る炎の剣で守られており誰もそこを突破することはできません。これは肉眼では見えませんが人間の魂における姿の描写です。では人間は決して幸福にはなれないというのろいの中に置かれていて、これを変えることはできないのか。人間は自分の力ではどうすることもできないという意味ではそうです。

 

 聖書は旧約聖書の続きに新約聖書が置かれています。新約聖書の冒頭には福音書が置かれています。福音書とはイエス・キリストの物語です。イエス・キリストまで来て、人間の呪われた状態に対する希望の光が差し込んでくることになります。救いの手は伸べられているのです。

 

協力牧師 Amos

  

 

 

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