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老大学生奮闘記#36 祈りの始まり

 

「セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」(創世記4章26節)

 

 アダムは神を知っていました。自分たちの違反のために園を追われたことも認識していました。カインも大きな罪を犯した後、その罪責に苦しみました。神から逃れることはできませんでした。

しかし、善悪の知識の木を魂の遺伝子の中に取り込んだ人類は、罪意識から逃れるために理屈で神のイメージを排除し始めました。このように神意識は息苦しくなってきていました。この息苦しさから逃れるために理屈をこね始めたのです。

しかし、これでは魂の平安は薄れてきます。そのため一方では祈りによって神を求める人々も現れました。これがこの頃の風景です。これは祈りの始まりですが宗教の始まりでもあります。こうして宗教心を意識する人々が現れました。

 

 宗教心とは何でしょうか。人間に与えられた機能の一つです。機能とは環境と対になります。目は光と、耳は音と、胃袋は食べ物と、肺は空気となどなど対で考えるべきです。

人には神の息である魂がありますが、絶えず神を求めています。魂にとって神が環境だからです。神無しの魂は弱り果て生き絶え絶えとなります。これが宗教心の姿です。神のイメージが薄れていく中でついに祈り始めました。

 

 セツの母エバはセツを失ったアベルの代わりとしました。神のことを忘れないように育てたことでしょう。彼が成人して妻を娶りエノシュを授かった時、幼子を抱き「おお神よ」と祈りました。生まれた子を抱いたとき、このように叫びました。

 

 現在までも人にとって誕生と死は祈りの心を呼び起こすものです。いのちの誕生は神秘に満ちています。母がわが子をいつくしむ心はどこから来たのでしょう。当たり前を当たり前にできないとき、人は神を思います。セツは「主の名を」呼びました。「主よ、この子に祝福を」と。これは誰もが持つ思いではないでしょうか。

 

 また人の死はあまりにも厳粛です。これを神無しで超えることには無理があります。人の死が何故にこんなに悲しいのでしょうか。必ず来る死、誰もが向かえる死、それがこんなに悲嘆に暮れるものなら、それでも生まれてくることに意味があるのでしょうか。このわけの分からない思いを誰にぶつければよいのでしょうか。祈りとは「魂の発現」でなくて何でしょうか。

 

 

 

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