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老大学生奮闘記#38 主がのろわれた地

 

「彼(レメク)はその子をノアと名づけて言った。『この子は、がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の苦労から、私たちを慰めてくれるだろう。』」(創世記5章29節)

 

 アダムの子孫には二つの系図がありました。一つは4章にあるカインの系図、一つは5章にあるセツの系図です。祈りを始めたのはセツの家系でした。前回書きましたエノクは「神とともに歩んだ」人でした。そしてレメク、彼は地上が「がのろわれた地」であることを認識していました。エデンでの出来事はアダムとエバだけが知っていたことでした。彼はこのことを子どもたちに話したのでしょう。洪水前の世界には人々を律する規律は良心しかありません。しかし、良心は社会を律するだけの力はなく、世は乱れに乱れる状態となり、レメクはこれを「主がのろわれた」と受け取ったのです。

 

 レメクはノアが生まれた時、この子には神に祈ることをしっかりと教えようと、心に決めたのでしょう。それが「この子は、主がのろわれた地で…」と言う子どもへの期待となったのでしょう。人間は自分を律するだけの能力を持っていませんでした。人は神を意識した分、道徳に敏感になります。さらに自分の無力さを意識します。こうしたことは宗教心の現れですが、レメクは親としてこうした宗教心を大切にする子どもに育ってほしいと願ったのです。なぜなら、「のろわれた地」の原因は「神の怒り」であることをひしひしと意識していたからです。

 

 確かに宗教心はセツの家系で保持されてきました。しかしそれは細々とした灯心のようなものでした。ノアの時代には堕罪の濁流は人類全体を包み込む勢いとなっていました。人々は自分の欲望を律することが出来なくなっていました。のろわれたのは地であるというよりも人間の魂であったのです。神を失った人類が辿る道は当然のことながら、自己中心の蔓延です。人はやりたいことをやる。これが良識の範囲に止まっていればよいのですが、人として守るべき道を踏み外してしまう。こうなれば神の怒りを宥めることは不可能となります。こうした中でノアは育っていきました。

 

 

 

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