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老大学生奮闘記#39 神の子らと人の子ら

 

「さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。」(創世記6章1,2節)

 

 神の子らとか人の娘と言うことばが出てきますので、これは今までの話の復習をしないと先に進めません。創世記4章25節にセツの誕生の時、エバは「アベルの代わりに」神が与えて下さったと言っています。これはカインの子孫が流浪の家系となったことから、セツとその子どもたちが祈りの家系となることを願ったからです。ここから、セツの家系を神の子ら、カインの家系を人の子らと呼ぶようになったと解釈されるようになりました。魂のことを考えるなら、宗教は大切でこれを血筋で家系で守って行こうという考え方です。こうした考え方は信仰を重視する家族では現在でも継承されています。

 

 その後、人類は増殖するにつれ道徳は劣化してきました。セツの家系と言えども「主の名を呼ぶ」(4章26節)人々はノアとその家族だけとなりました。こうして人の心から宗教心(神を敬う心)は低下していきました。この傾向を推し進めた因子が雑婚でした。もし、このままの状況で時代が過ぎて行けば、すなわち何も起こらなければ、ノアが一人どんなに頑張ったとしても「神を知る人々」は地上から消滅することとなるでしょう。家庭で礼拝と祈りを守って行こうとしても、子どもたちの雑婚で神の思いは無視される方向へと推移することとなるのです。

 

 しかし、21世紀の今を見ますと、圧倒的な世俗の世界の中にも宗教心を大切にする人々、魂の欲求に忠実であろうとする人々がいます。これはなぜでしょうか。確かにその炎は細々としたものであるかも知れません。それは人の内面に神の息と言う霊が吹き込まれているからだ(2章7節)、と見ることもできます。しかし、ノアの時代の状況から類推する限り、そんな甘いものではありません。人は神の心を尊重する以上に自分の好みを第一にする者であることが明らかだからです。すなわち世界は神を無視する方向に進んできたのです。

 

 もちろん、ノアはこうした世の中に対して失望しました。憂いました。怒りました。そしてついに祈りました。「神さま、世があなたの御心を蔑ろにすることを何ともお思いにならないのですか」と。ノアはこの時、神を敬わない人間はみな、滅んでも構わないとも思いました。もし、不敬虔な人間がいなくなり、神を信じる者だけが残れば世界は良くなる、と考えたのでしょう。神はこのノアの祈りに応えて立ち上がりました。それが6章以下の出来事のはじまりとなったのです。

 

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