· 

老大学生奮闘記#40 人の齢

 

「そこで、は言われた。『わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。』」(創世記6章3節)

 

 5章を見ると、アダムは930年生きたことになります。人はそんなに生きることができるのか、については今後の医学の研究に任せることにして、ここでは、なぜ聖書はこうした記述をしているのかについて考えることにします。その後こうした長寿は前後して推移しますが、最も長生きしたのはメトシェラで、969年になります。短いのは彼の父エノク、365年です。こうしてノアの時代にまで来ました。上の聖句、「そこで、は言われた。…」と言う神様のつぶやきは、長生きが人にとってどんな意味があったのかを示しています。人は霊である以上に肉であったということです。

 

 肉であったということは、人はその瞬間瞬間を生きていて、自分たちが死に運命づけられているということを、あまり考えなかったということです。神が「必ず死ぬ」(2章17節)と言われたことがあまり功を奏していませんでした。もちろん、人生の虚しさを感じ取っていた人々もしました。彼らは祈り始めました(4章26節)。その分、霊は活性化していました。しかしこうした宗教心は衰えていき、人の心から「神不在」が侵透していきました。セツの家系においてすら、ノアの家族だけが祈りの習慣を保持していたことになります。その結果が前回見たような雑婚で、次に見て行くような人の悪の増大です。

 

 そこで神が取られた処置は寿命の短縮です。とはいっても120年ですから長いです。これは人のうちに吹き込まれた神の霊(2章7節)は、永久にとどまることには無理があるから、齢を短くし、短期決戦で行こうということにされたのです。これによって、人間性の目覚めが少しはあったことは、後に見ることになります。人は内面に「死ぬべき運命」と言う呪いを抱えています。それが長寿によってふやけてきました。若い時の死の恐怖は強烈です。しかし老齢になると恐れる心は緩和されます。その結果、神不在の世界となってしまったのです。

 

 「神と向き合うことのない人間」、神はこうした状況に眉を顰められました。そして寿命を短くされました。人はこれによって魂を活性化するのではなく、死をできるだけ先の延ばすことを考え出しました。それは衛生状況の改善であったり、肉体の鍛錬であったりします。しかしそれは死を克服したことにはなりません。やがて、「刹那主義」が行き渡ることになります。これはノアの時代の人の内面の消息であったのです。

 

 

アモスのページの中の[webW礼拝]を ご覧ください