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老大学生奮闘記#41 名のある者たち

 

  「神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。」(創世記6章4節)

 

 神の子らとはセツの家系の人々、人の娘たちとはカインの家系の娘たちと言うことは前回触れました。ネフィリムについては聖書ではここと民数記13章33節に出てくるだけで詳細は分かりません。「勇士」「名のある者」、民数記からは「背の高い者たち」からイメージするしかありません。格闘技の選手を描くとよいと思います。肉体の力を自慢していた人たち、勝負して名をあげることを誇りとしていた人たちでした。自分を何者であるかを誇示したい人たち、すなわち有名になりたいと言う人は、いつの時代でも存在していました。ここに生きがいがあるとしていました。

 

 人は生まれてきて、今地上にいるのは何のためなのか、その意味を知りたいと切に願っています。人は生まれて子を産んで死んで行く。これではたとえ千年の寿命があったとしても意味がなければ空しいものです。そこで自分の能力を誇示するということになるのです。こうした欲求を持っていること自体、人がただ肉だけでなく、霊的存在であることの現われです。

 

 当時、信仰の家系は細々としたものでした。ノアの家族以外は現世にある価値だけで生きていました。魂に神が不在と言う状態は、魂にとっては酸欠状態です。この空腹を満たすものをどこかに探さなければなりません。これが「名のある者たち」と言う人々の実体でした。

 

 「神の霊が人のうちにとどまれない」(3節)。これが人間の最重要課題です。このために、精神は飢餓状態で空洞があり、人生の意味を失ってしまいました。聖書全体は神様がこの課題と取り組んでいる物語とも言えます。新約聖書では、イエス様が失われた羊を探してこられたと記されています。救いのテーマは創世記から始まって黙示録まで、一つの流れとなっていますので、このことを心にとめて読むことが肝要です。

 

 

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